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10月1日ビューエルのオハイオ軍はジョージ・ヘンリー・トーマス少将を副司令官としてルイビルを発った(この2日前に、ビューエルはワシントンから指揮官を解任しトーマスに引き継がせるという命令を受け取ったが、トーマスが異議を唱え、方面作戦が進行中に指揮官職を受けられないと言ったので、ビューエルはそのまま指揮を続けた)。総勢55,000名だが、その多くはトーマスが「まだ訓練も施されておらず、適切な砲兵隊も備わらず、訓練を積んだ敵に対して活動的な作戦を行うには全く不向き[21]」と記述した状態で、3つの別々の道路をバーズタウンにいるブラッグの古参兵軍に向かって進軍した[22]。 アレクサンダー・マクック少将の第1軍団はマックビル道路にそって左翼を進んだ。総勢13,000名はラベル・H・ルソー准将の第3師団、およびジェイムズ・S・ジャクソン准将の第10師団で構成された[23]。 トマス・L・クリッテンデン少将の第2軍団は右翼のレバノン道路を進んだ。総勢20,000名はウィリアム・スーイ・スミス准将の第4師団、ホレイショ・P・ヴァン・クリーブ准将の第5師団およびトマス・J・ウッドの第6師団で構成された[24]。 チャールズ・C・ギルバート少将の第3軍団は中央のスプリングフィールド・パイクを進んだ。ほんの数週間前、ギルバートは大尉だったが、以前の指揮官ウィリアム・"ブル"・ネルソン少将の殺害の後で、少将の代行と軍団指揮官に昇進していた。ギルバートの総勢22,000名も3個師団で構成された。アルビン・F・シェフ准将の第1師団、ロバート・B・ミッチェル准将の第8師団およびフィリップ・シェリダン准将の第11師団だった[25]。 ブラッグのミシシッピ軍は2翼に分かれた16,800名で構成された。右翼はレオニダス・ポーク少将が指揮し、ベンジャミン・F・チーザム少将の1個師団だけだった。左翼はウィリアム・J・ハーディ少将が指揮し、J・パットン・アンダーソンとサイモン・B・バックナー各准将の師団で構成された[26]。 ブラッグは9月28日にフランクフォートに向けて出発したとき、その軍隊指揮をポークに任せた。10月3日、北軍大部隊の接近によって南軍は東方への後退を強いられ、バーズタウンが10月4日に占領された。ハーディの翼はペリービルで停止しブラッグからの応援を要請した。ブラッグはケンタッキー州ベルサイユでその軍隊を集結させたいと望んだが、北軍第3軍団が急速に接近したので、ペリービルとハロッズバーグでの集結を強いられた[27]。 ハーディは幾つかの理由でペリービルを選んだ。ペリービルは住人約300名の村だが、近くの6方向にある町とを繋ぐ優れた道路網があり、戦略的な柔軟性があった。ブライアンツビルにある南軍の物資保管所に北軍が接近するのを阻む位置にあった。また、水源を確保できる可能性もあった。その地域は何ヶ月も干魃で苦しんでいた。暑さは人も馬も耐え難いものであり、町の西にある川やクリークで得られるはずの飲料水源の大半は水量が減って澱んだ個別の水溜まりになっており、是が非でも確保したいものだった[28]。 10月7日、ビューエル軍はペリービル地域に到着し、騎兵隊がその日を費やしてホィーラーの後衛を潰した[29]。ビューエルは第3軍団と共にあり、南軍がペリービルで停止し、その歩兵を配置に付けたことを知った。ここで攻撃の作戦を立てた。不動産投資 が主要な目標だったが、水源が使えるということは町とその周辺を支配することを望ましくさせていた。ビューエルは各軍団に翌日の午前3時に動き、同10時に攻撃を掛けるよう命令を発した。しかし、第1軍団と第2軍団の動きは鈍く、水を探して行軍のコースから数マイル逸れていた。ビューエルは攻撃を10月9日まで延ばし、その軍隊の配置を終わらせることにし、8日は各軍団長に会戦を避けるよう命令した。ビューエルは到着しつつある軍団の配置を監督できなかった。馬から放り出されたときに負傷して、馬に乗れなかった。その作戦本部は町の真西約3マイル (5 km)にあるドーシーの家にした[30]。 ハーディはペリービルに北と西から入る3本の道路に跨って防衛線を布いた。増援が到着するまではバックナー師団の4個旅団のうち3個旅団しかいなかった。スターリング・A・M・ウッド准将が町の北で配置に付いた。ブッシュロッド・ジョンソン准将はウッドの右手で、ハロッズバーグ・パイクに近いチャップリン川の東に付いた。セントジョン・R・リデル准将のアーカンソー旅団はドクターズ・クリークの支流ブルラン・クリークの直ぐ東、ボトムヒルの頂上に陣取り、第7アーカンソー連隊をクリークの対岸にあるピターズヒルに送っていた[31]。10月7日の夜、南軍の最後の部隊が到着し始めた。パットン・アンダーソンの4個旅団の先鋒が午後3時頃にその地域に到着した。バックナー師団の残り、パトリック・クリバーン准将の旅団が続いた。夜半頃フランク・チーザム師団の3個旅団がその小荷物列車を後に到着し直ぐにまた熱心に移動した。その4個目の旅団、プレストン・スミスCFD はハロッズバーグに戻るよう命令を受けた[32]。 この戦闘の最初の発砲は10月8日朝早くに行われた。第10インディアナ連隊の部隊が、ドクターズ・クリークの乾いているはずの河床に藻類で覆われた水溜まりを見付けて、そこを利用しようと前進した。そこで第7アーカンソー連隊の前衛に遭遇して銃火が交わされた。午前2時、ビューエルと第3軍団指揮官ギルバートは新しく昇進したばかりのフィリップ・シェリダン准将にピーターズヒルを確保するよう命令した。シェリダンはダニエル・マクック(第1軍団指揮官の弟)大佐の旅団とともに進発した。シェリダンはその丘を占領し、第7アーカンソー連隊をその旅団の主要戦線まで押し返したが、クリークを渉っての攻撃を続行した。リデルの旅団はシェリダンの喉が渇いた兵士達の勢いを止めることができず、リデルの属する師団指揮官バックナーはポークから支援しないように命令されていたが、その旅団を後退させた。ポークは勢力的に劣勢になることを怖れ、チャップリン川の西で会戦を始めることを心配していた。一方、北軍側では神経質なギルバートがシェリダンにピーターズヒルまで退くよう命じた[33]。 この戦闘に先立つ数日間、ブラッグはフランクフォートに向かうシルズの師団によって、それがビューエルの主力攻撃部隊と思い欺かれていた。ブラッグはポークがペリービルで敵の小さな部隊と思っていたもの攻撃して打ち破り、直ぐに戻ってくれば全軍がスミス軍と合流できるものと思っていた。商品先物取引 はその朝早く伝令をブラッグに送って、活発に攻撃するつもりを伝えたが、直ぐに考えを変えて防御に徹することにした。ブラッグは戦闘の音が聞こえないことに怒り、指揮を執るためにハロッズバーグからペリービルまで馬を走らせ、午前10時頃に到着して、ハロッズバーグ・パイク沿いのクロウフォードの家を作戦本部に定めた[34]。 ブラッグはポークの戦線に隙間があり側面を適切に抑えていないのを見て愕然とした。馬で乗り進んで町の北にいるマクックの第1軍団の様子を観察したが、大きな脅威はその日の朝早くに第3軍団に対する行動が起こったスプリングフィールド・パイクで続いていると判断した(クリッテンデンの第2軍団がレバノン・パイクを近付きつつあるとい情報は掴んでいなかった)。自軍の配置を北から南に並ぶ戦列に変え、「梯形編成」の攻撃に備えるよう命令した。チーザムの師団は町から北に進軍し北軍左翼に対する攻撃に備えた。これはブラッグがマックビル道路で大きな「左旋回」操軍を始めようと考えたものだった。パットン・アンダーソン師団の2個旅団が北軍中央を襲い、サイモン・バックナー師団は左翼で支援するというものだった。サミュエル・パウェル大佐が指揮するアンダーソンのもう1つの旅団がさらに南のスプリングフィールド・パイクから攻撃しようとしていた。チーザム師団の北へ向かう大急ぎでの行軍で巻き上がった埃の大きな雲で、マクックの部隊に南軍は撤退を始めていると思わせることになり、これがその日遅くの南軍による急襲効果を上げた[35]。 10月8日の午後までに、ビューエル軍の大半が到着した。マクックの第1軍団は左翼にベントン道路からマックビル道路にかけて配置した。ギルバートの第3軍団は中央のスプリングフィールド・パイクに、クリッテンデンの第2軍団は右翼のレバノン・パイクに配置した。戦闘中の大半の行動はマクックの第1軍団に対するものだった。異常な音響陰影のために、2マイル (3 km)しか離れていないビューエルの作戦本部には戦闘の音がほとんど聞こえなかった。ビューエルはその日遅くまで戦闘の実質統制を行わず、予備隊を取っておくこともしなかった[36]。 午後12時半にチーザムの外貨預金 からの砲撃が始まったが、歩兵には直ぐに前進を命じなかった。北軍兵はその戦列を構成し続けその側面は北へ延びて意図していた攻撃路を越えていた。ブラッグはチーザム師団をウォーカーズ・ベンドに移動させ、それによって北軍の開いた側面を叩けると考えた。南軍にとって不運なことに、戦場の北端に突き出た丘、オープンノブに北軍マクックががチャールズ・パーソンズ中佐の砲兵隊とウィリアム・R・テリル准将の旅団を配置する前に、南軍騎兵の偵察隊が引き上げていた[37]。 マニー、ブラウン、ジョンソンおよびクリボーンによる攻撃(~ 午後3:45)[38]南軍ダニエル・S・ドネルソン准将の旅団が最初にチャップリン川を渉り、西岸の崖に登り、午後2時頃に攻撃を開始した。その旅団の中で2個連隊は別の所に派遣されていたので、3個連隊だけで攻撃した。チーザムは「奴らに地獄を見させろ」と叫んだ。南北戦争の時に続いた伝説の一つでは、聖公会主教でもあるポークが近くにおり、チーザムに続いて「奴らにそれをやるんだ。チーザム将軍が言っているものを」と続いたということである[39]。この旅団は予想していたような開いた側面を衝く代わりに、北軍陣地の中央に正面攻撃を掛けてしまっていることが分かった。ジョン・H・サベイジ大佐の第16テネシー歩兵連隊は他の2個連隊よりも前に出て、サミュエル・J・ハリス大尉の砲兵隊に迫ろうとした(サベイジはドネルソンが酔っぱらいで軍事的能力は限られていると軽蔑しており、しばしばその命令に注意を払わないことがあった。投資信託 はハリスの砲兵隊を攻撃せよと言うドネルソンの命令が自分に対する死の宣告だと考えた)。西の窪地に動くと第33オハイオ歩兵連隊と200ヤード (180 m)北のオープンノブにいるパーソンズ砲兵隊の8門の大砲から十字砲火を浴びた。チーザムはジョージ・E・マニー准将の旅団にオープンノブのパーソンズ隊に対処ために前進するよう命じたが、ドネルソン旅団は敵の砲火に抗しきれず、午後2時半におよそ20%の損失を出して撤退し、出発点に戻った。サベイジの連隊は370名中219名が失われた[40]。