東証Mothers
バーンサイドはこの右翼への攻撃が左翼へ行われる主隊の単なる支援になると予測していたが、フランクリンが立ち往生し、継続要請にも抵抗したので、バーンサイドは重点を変えた。フレンチの師団が大きな損失を出して撃退された後、バーンサイドはウィンフィールド・スコット・ハンコックとオリバー・O・ハワード各准将の師団を送り込んだが同じ運命に遭った。この時までに、南軍ジョージ・ピケット少将の師団とジョン・フッド少将の配下の1個旅団が北へ動きメアリーズハイツを補強した。チャールズ・グリフィン准将師団が午後3時半に攻撃を再開し、アンドリュー・A・ハンフリーズ准将の師団が午後4時に続いた。夕暮れ時にジョージ・W・ゲティ准将の師団が東から攻撃したがこれも撃退された。
北軍は6個師団が投入され、通常一どきに1個旅団が当たり、つごう16回の個別の攻撃となったが、全て失敗し、6,000名から8,000名の損失を出した[2]。リー将軍はリーズヒルと呼ばれることになるその戦線の中央の場所からこの大虐殺を見ており、「戦争は大変恐ろしい、我々はそれを大変好むようになるべきだろう」と言ったとされている。ハイツでの戦闘の中にはアイルランド旅団の突撃もあり、戦力の50%を失ったが、他のどの旅団よりも高くハイツに駆け上がった。メアリーズハイツでの南軍の損失は1,200名程度だった[3]。暗闇が訪れ、バーンサイドの部下達の懇願で攻撃は止められた。後にロングストリートは、「この攻撃は絶望的で流血が多く、全く望みの無いものだった」と書いた[3]。数千の北軍兵士が12月の寒い夜をハイツに続く戦場で過ごし、南軍の銃火のために負傷者を動かしたり助けることもできなかった。
12月14日は一日中、両軍はそのままの陣地に留まり、バーンサイドはその古くから率いる第9軍団でメアリーズハイツに最後の攻撃を掛けようと考えたが、思い直した。その日の午後、バーンサイドはリーに負傷者を引き取るための休戦を申し入れ、リーはこれを寛大に受け入れた。翌日、北軍は川を渡って撤退し、戦いは終わった。
両軍が蒙った損失を比べれば、いかに北軍の戦術が絶望的なものだったかがはっきり分かり、バーンサイドは一ヵ月後に指揮官から解任された(泥の行進という惨めな失敗の後)。北軍の損失は12,653名(戦死、1,284名、負傷9,600名、捕虜または不明1,769名)だった[4]。2人の将軍、すなわちジョージ・ダシール・ヴェイアード准将とコンラッド・F・ジャクソン准将が瀕死の重傷だった。南軍の損失は5,377名(戦死608名、負傷4,116名、捕虜または不明653名)だった[4][5]。この損失の大半は戦闘初期のジャクソンの前線でのものだった。南軍のマクシー・グレッグ准将とT・R・R・コブ准将が戦死した。
戦闘中の大虐殺と損失の程度に関する証拠として、第2サウスカロライナ志願歩兵連隊G中隊の軍曹リチャード・ローランド・カークランドの話がある。メアリーズハイツの下の窪んだ道路側にある石壁にいたカークランドは北軍が苦しんでいる様を近くで目撃し、他の多くの者と同様に、12月13日の寒い冬の夜通し助けを求める北軍負傷者の叫びを聞いてぞっとした。上官のジョセフ・B・カーショー准将の許可を得て、水筒を集め、明るい日中に、銃火を止めるとか休戦の旗もないままに(カーショーが拒否した)、戦場に横たわる多くの北軍兵士に水を与えて回った。北軍の兵士は、カークランドの意図が明らかだったので発砲を止めた。カークランドはこの
先物取引
で「メアリーズハイツの天使」と渾名され、その行動を実行したフレデリックスバーグ・アンド・スポットシルバニア国定軍事公園に銅像と標識で記念されている[6]。
南部は大勝利に接して歓喜に沸き立った。リッチモンドの「イグザミナー」紙は「侵入者にとっての驚くべき敗北、神聖なる大地の守護者にとって素晴らしい勝利」と表現した。リー将軍は通常発言を控えるが、チャールストンの「マーキュリー」紙によって、「歓喜、ほとんど一方的、彼を訪問する人は誰でも抱擁したいように思われる」と表現された。新聞も「リー将軍は仕事のやり方を知っており、その軍隊は失敗というような言葉を未だに知らない」と叫んだ[7]。
北部の反応は正反対であり、軍隊もリンカーン大統領も政治家や報道から強い攻撃を受けた。シンシナティの「コマーシャル」紙は「あの日我が軍に感知できるよりも、兵士が多くの勇敢さを示すか将軍達が判断しないことを示すかは、人間の性格として考えられない。急進派共和党のザカライア・チャンドラー上院議員は「大頭領は弱い男であり、この場に臨んであまりに弱く、かの愚かで裏切り者の将軍達は、決着のつかない戦闘と遅れの中で、時間とより貴重な血を費やしている。」と書いた。ペンシルバニア州知事アンドリュー・カーティンは戦場に行ったあとでホワイトハウスを訪問した。彼は大統領に向かって、「あれは戦闘ではなかった。あれは
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だった」と言った。カーティンは、大統領が「戦闘を振り返って心を傷め、直ぐに狂気に近い神経的興奮状態になった」と報告した。リンカーン自身も「地獄よりも悪い場所が有るとすれば、私はそこにいる。」と記した[8]。
2006年3月、南北戦争保存信託はフレデリックスバーグ戦場跡の重要な場所であるスローター・ペン農場の保存のために120万ドル募金運動を始めると宣言した。205エーカー(80万平米)の農園は地元ではピアソン・トラクトと呼ばれ、1862年12月13日の流血を呼んだ戦闘の場所である。この場所で北軍のジョージ・ミード少将とジョン・ギボン准将の部隊が、フレデリックスバーグの北バージニア軍戦線南側を守るストーンウォール・ジャクソン中将の部隊に攻撃を掛けた。ミードは以下の北軍は莫大な損失を受けたにも拘らず、一時的に南軍の戦線を突破し、暫くの間、フレデリックスバーグの戦いで北軍が勝つチャンスを示した。戦場のこの南側の場所での戦いは
日経225
にスローター・ペンと名付けられ、5,000名の損失と5名の名誉勲章受賞者を生んだ。
スローター・ペン
FX 初心者
はフレデリックスバーグ戦場跡で最大の保護されないままとなっている場所と考えられた。また戦場跡で訪問者が12月13日の北軍の攻撃を初めから終りまで辿ることのできる唯一の場所でもある。フレデリックスバーグで他の北軍が攻撃したと考えられる場所ほとんど全ては、すなわち戦場の南端やメアリーズハイツの前面は開発によって変わってしまった。フレデリックスバーグ戦場跡のスローター・ペン農場に1200万ドル募金獲得は、アメリカ史の中でも最も大望ある非営利戦場跡獲得と呼ばれた[9] 。
2006年10月、アメリカ合衆国内務省はスローター・ペン農場の重要性に基づき200万ドルを拠出した。この金は土地および水保護基金からアメリカ合衆国議会の政府支出金を通じて与えられた。この基金はアメリカ南北戦争の意味ある戦場跡を獲得し保存するために非連邦の運動を支援している。この計画はアメリカ合衆国国立公園局のアメリカン戦場跡保護計画で管理されている。sらに中央バージニア戦場信託はスローター・ペン農場募金に100万ドルを寄付したミズーリ州の南部寄り知事であるクレイボーン・F・ジャクソンは、ミズーリ州を合衆国から脱退させてアメリカ連合国への加盟を望んだが、州内全体の民衆感情は当初中立だった。選出された州の会議ではジャクソンが望んだ脱退条例を通すことはなかった。
一方、脱退推進派の集団がミズーリ州リバティの小さな武器庫を占領し、セントルイス武器庫でさらに多くの武器を捕獲しようと計画した。彼等は活力ある若い士官、ナサニエル・ライアン大尉に阻止された。ライアン自身は、反奴隷制論者でセントルイスのドイツ系移民である地元の政治家フランク・ブレアと同調し、武器庫を確保した。この過程の1861年5月10日、ライアンは主にドイツ系移民の北軍民兵隊を使って、キャンプ・ジャクソンの近くで訓練していたミズーリ州兵隊を捕獲した。ライアンが無分別に捕虜達をセントルイスの通りを通って武器庫まで行進させているときに、破壊的な暴動が起こった。このことが州内の表面下にあった南部寄り感情に火をつけた。ライアンの行動の結果、ミズーリ州議会は即座にミズーリ州兵隊を作る知事の民兵法案を成立させ、古い民兵隊を核に結成を始めた。
ミズーリ州は脱退を思い留まっていたので、意見の違いを調停する試みが行われた。最初の州兵召集は議会によって止められた。しかし、その間にライアンはミズーリ州兵隊の准将に指名され、州内の指揮に就いた。6月11日、どちらの側も相手を信用できなかったので、協議は物別れとなった。
ジャクソン知事と州兵の指揮官スターリング・プライスは州都のジェファーソン市に向けて逃亡し、6月12日にそこに着いた。彼等は直ぐにジェファーソン市を保持できないと結論付け、翌日にはブーンビルに向かった。
ライアン将軍は即座に北軍2個志願兵連隊、アメリカ陸軍正規兵1個中隊および1個砲兵大隊、総勢約2,000名を蒸気船に乗せて彼等の後を追った。その目標は州都を掴むことであり、ミズーリ州兵隊を追い払うことだった。ライアン軍は6月15日にジェファーソン市に到着し、ジャクソンとプライスがブーンビルに向けて撤退したことが分かった。
プライスはジェファーソン市が防衛できないことを認識し、レキシントンとブーンビルから州兵を集めるための十分な時間が欲しいと思った。ライアンが接近してくればブーンビルからも撤退する考えだった。州兵のジョン・S・マーマデューク大佐がブーンビルで部隊の組織化を始める一方で、モスビー・M・パーソンズ准将は20マイル (32 km)南のティプトンで陣地を構築するよう指示を受けた。
プライスは病気のためにブービルを離れ、レキシントンで集められている軍隊に加わった。このことは、政治家である知事に指揮させるという不幸なことになった。ジャクソンは撤退する代わりに、これ以上撤退した場合の政治的な悪影響を恐れたので、町を守ることに決めた。彼の部下の兵士達も敵と対峙することに熱心であったが、兵士達はショットガンやライフルで武装しているだけであり、効果的に戦うための十分は訓練も受けていなかった。マーマデュークは戦うことに反対だったが、この待機する軍隊の指揮に渋々就いた。
ライアンはジェファーソン市を確保するために300名の北軍を残し、6月16日に再度残りの部隊を蒸気船に乗せた。この部隊は6月17日の朝にブーンビルの下流約8マイル (13 km)の地点で上陸した。ジャクソンはライアン軍が接近していることを知らされ、ティプトンにいるパーソンの部隊を呼び寄せようとしたが、この部隊は間に合わなかった。
戦いは実際に小競り合い以上のものではなかったが、南北戦争で最初の重要な陸上戦闘であり、ミズーリ州における南部の期待に対して重い結果となった。
ライアン軍は舟から降りたあとで、ブーンビルに向けてロッシュポート道路を進軍した。崖に近付いたところで哨兵に遭遇したが、ライアンは散兵を配置し急速に押し出させた。
崖の背後の尾根では、急ごしらえで装備も整わないミズーリ州兵総勢約500名が待ち受けていた。大砲はティプトンにいるパーソン隊のところにあったので、この部隊には無かった。ジャクソン知事は不可解にも自軍の中で唯一合理的に訓練され組織も整った部隊(ケリー大尉の中隊)を予備隊にし、戦闘に参加することは無かった。ジャクソンは1マイル (1.6 km)以上離れた所から衝突を眺めていた。
ライアンは兵士と大砲を配置に付かせ、前進した。大砲が直ぐにウィリアム・M・アダムズの家に陣取っていた狙撃兵隊を立ち退かせた。北軍歩兵は防衛線に接近し、数回一斉射撃をかけて敵軍を撤退させた。この場での戦闘はほんの20分間程度だった。兵士を集めて北軍の前進に抵抗することが何度か試みられたが、側面を衝いた北軍中隊が州兵背後の宿営地を占領し、ライアンの川舟の榴弾砲が州兵の陣地に砲撃を始めた時に抵抗も崩壊した。
マーマデュークが恐れていたように撤退は急速に壊走に変わった。守備兵はキャンプ・ベイコンやブーンビルの町を通って逃亡した。家に戻った者もいたが、多くは州南西隅に撤退する知事に合流した。この短い戦いとまっしぐらの撤退によって「ブーンビルの競走」という渾名が付いた。
ライアンは午前11時には町を占領した。