トラッキングストック
7月のゲティスバーグの戦い後、リーはポトマック川を越えてバージニア州に撤退し、オレンジ郡のラピダン川の背後に軍を集結させた。ミードはリー軍を攻撃的に追撃せず打ち破ることができなかったために多くの者から批判された。これを正すためにバージニアでの新しい攻撃作戦を考えた。
9月初旬、リーはジェイムズ・ロングストリート軍団の2個師団をジョージア州の南軍を補強するために派遣した。ミードはロングストリートがいなくなってリー軍の戦力が弱まったことを知り、この機会を捉えようとした。8月にはラッパハノック川まで進軍し、9月13日、強い部隊を押し出してラピダン川に沿うリー軍に対決させ、カルピーパー・コートハウスの戦いに続いてカルピーパーを占領した。ミードはその勢力的優位さを利用して、その年の春のチャンセラーズヴィルの戦いでジョセフ・フッカー少将が立てた作戦に類似する広く回り込む作戦を立てた。しかし、9月24日、北軍は西部戦線のチカマウガの戦いでの敗北のために第11軍団と第12軍団をテネシー州チャタヌーガに
不動産投資
しなければならなくなり、南軍と同様に戦力が減った。
リーは北軍の軍団が減ったことを知り、10月初めに残された2個軍団でシーダー山を回りこむ攻撃的な動きを始め、ミード軍の右翼に回ろうとした。ミードはまだ勢力的に勝っていたにも拘らず、そのポトマック軍にオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道の路線まで後退することを命じた。
ブリストー方面作戦では次の戦闘が行われた。
J・E・B・スチュアート少将はいつものごとく、輜重隊を捕まえるための襲撃を行い、ウォーレントンの近くで北軍第3軍団の後衛に迷い込んだ。リチャード・イーウェル中将の軍団がスチュアート隊の救援に送られたが、スチュアートは第3軍団が気付かずに立ち去るまで樹木の多い峡谷にその騎馬兵を隠し、支援は不要になった。
北軍がマナサスの鉄道結節点まで退いたので、ミードはこの
ワラント
であった以前の戦闘でジョン・ポープやジョセフ・フッカーが陥った性質の包囲されることを避けるために西側の側面を注意深く守った。ガバヌーア・K・ウォーレン少将の第2軍団に所属する複数の旅団がスチュアートの騎兵隊とハリー・ヘイズ准将師団の歩兵隊とオーバーンの近くで後衛戦を行った。スチュアートの騎兵隊は大胆にウォーレンの歩兵隊を翻弄し惨劇は避けられた。第2軍団はオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道のカトレット駅まで押し出した。
A・P・ヒル中将軍団はブリストー駅で撤退する北軍の2個軍団と遭遇し、適当な偵察もないままに攻撃を掛けた。北軍第2軍団の兵士はオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道の盛り土の背後に陣取り、ハリー・ヘイズ准将師団の2個旅団を潰し、砲兵1個大隊を捕獲した。ヒルは戦線を補強したが決死の防御を行っている北軍兵に対してほとんど前進できなかった。ミードはこの勝利の後で、妨害も無くセンタービルまでの撤退を続けた。リー軍のブリストーでの攻勢は早過ぎる中断になってしまった。ミードは防御を固め、リー軍は物資が尽き掛けていた。マナサスとセンタービルでの小競り合いの後で、南軍はオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道を
外為
しながら、緩りとラッパハノック川まで退いた。ミードは総司令官のヘンリー・ハレックからリー軍を追撃するよう圧力を掛けられていたが、軍の背後にある鉄道路線を敷き直すためにおよそ1ヶ月を要した。
ブリストー駅での敗北と頓挫したセンタービルでの行軍の後で、スチュアートの騎兵隊はマナサスの鉄道結節点近辺からリー軍が撤退するのを遮蔽した。北軍ジャドソン・キルパトリック准将の騎兵隊がウォーレントン・ターンパイクに沿ってスチュアートの騎兵隊を追撃したが、チェストナットヒル近くで待ち伏せに遭い、
くりっく365
された。北軍の騎兵は散り散りになって5マイル (8 km)も追いかけられ、この時のことは後に「バックランド・レイシズ」と呼ばれるようになった。
リー軍はラッパハノック川背後の元の場所に戻ったが、北岸に要塞化された橋頭堡を残し、ケリーの浅瀬への接近から守っていた。11月7日、ミードは2箇所でラッパハノック川を押し渡ろうとした。ジョン・セジウィック少将の第6軍団による夕暮れの急襲で南軍ラッパハノック駅の橋頭堡を圧倒し、ジュバル・アーリー少将の師団から2個旅団(1,600名以上)を捕虜にした。ケリーの浅瀬での戦闘は厳しいものではなかったが、南軍は撤退し、北軍が力で渡河することを許した。
リー軍はカルピーパー周辺の
外為
に行こうとしていたが、その代わりにラピダン川の南オレンジ郡に撤退した。ポトマック軍はブランディ駅やカルピーパー郡の近辺を占領した。リーとその士官達は成功できなかったことで嫌気が差した。
ブリストー方面作戦の5つの戦いの結果、両軍合わせて3,910名の損失が出たが、これには南軍が捕虜にされた1,600名が入っている。この方面作戦の後、11月遅くにマイン・ランの戦いがあり、やはり決着が付かなかった。
フレデリックスバーグの戦い(フレデリックスバーグのたたかい、英:Battle of Fredericksburg)は、アメリカ合衆国バージニア州フレデリックスバーグ市の内外で、1862年12月11日から12月15日にかけて、南軍の将軍ロバート・E・リーの北バージニア軍と北軍のアンブローズ・バーンサイド少将のポトマック軍との間で戦われた戦闘であり、南北戦争の中では最も一方的な結果になったものとして記憶されている。北軍は12月13日に市の背後にある高台で塹壕に入って防御を固めた南軍に対して無益な正面攻撃を繰り返して恐るべき損失を出し、アメリカ連合国の首都リッチモンドへ向かっていたその方面作戦を早期に切り上げることになった。
この戦闘はリーの小規模だがより好戦的な軍隊に対する戦いの中で北軍が主導権を取り戻そうとした結果として生まれた。バーンサイドは11月に、ジョージ・マクレラン少将に代わってポトマック軍指揮官に指名された。マクレランは9月のアンティータムの戦いでリーの侵攻を止めたが、エイブラハム・リンカーン大統領はマクレランが決断力を欠いているので、メリーランド州でリー軍を追撃し破壊しなかったし、大会戦の後で軍隊の編成替えや再装備に時間を過剰に費やしていると考えた。
バーンサイドは、リンカーンや総司令官ヘンリー・ハレック少将から背中を突付かれたことに反応し、秋も遅い攻撃を立案し、11月9日にハレックとその作戦について検討した。この作戦は素早い動きと偽装に頼っていた。まずバージニア州ウォーレントン近くに敵にも見える形で軍を集結させ、カルピーパー・コートハウス、オレンジ・コートハウスおよびゴードンスビルに動く振りをする。次に軍隊を素早く南東に動かしラッパハノック川を越えてフレデリックスバーグに入る。このときリーがバーンサイドの意図を理解できずにじっと動かずにいることを期待して、北軍は急速にフレデリックスバーグからリッチモンド・フレデリックスバーグ・アンド・ポトマック鉄道に添って南のリッチモンドに向けて進軍する。バーンサイドは、もし彼がウォーレントンから直接に南に動けば、このときウィンチェスターの南、シェナンドー渓谷にいるストーンウォール・ジャクソンの軍団の側面攻撃に曝されることを心配していたので、この作戦を選んだ。バーンサイドはまた、オレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道が不適切な供給線だと考えた。バーンサイドがフレデリックスバーグに近いファルマスに補給基地を集め始めたときに、リンカーンの内閣はバーンサイドの作戦の見識について長々と議論を続けていた。リンカーンはバーンサイドの作戦を最終的に承認したが、最速で動かなければならないと警告し、リーがバーンサイドの予測したように動くかについては実際に疑っていた。
北軍は11月15日に行軍を開始し、戦闘部隊は11月17日にファルマスに到着した。バーンサイドの作戦は直ぐに躓いた。舟橋を前もって送りラッパハノック川を素早く渡れるように命令を出していたが、手配のしくじりから橋は軍隊より前に送られていなかった。エドウィン・V・サムナー少将が到着した時、直ぐに川を渡って町にいる500名ばかりの南軍部隊を蹴散らし、西側の地の利のある高地を占領することを強く推奨した。バーンサイドは恐慌に陥っており、増加する秋の雨で川の浅瀬が使えなくなり、サムナーが遮断されて打ち破られる可能性を心配した。バーンサイドはその主体性を失い、サムナーにはファルマスで待つように命じた。
11月21日までにジェイムズ・ロングストリート中将の軍団がフレデリックスバーグ近くに到着し、ジャクソンの軍団も急速で続いた。リーは当初バーンサイドとフレデリックスバーグの北西で戦うことを予測し、ノースアンナ川の背後に後退する必要があると見ていた。しかし、バーンサイド軍が緩り動いているのを見ると、全軍にフレデリックスバーグに向かうよう命じた。11月25日に最初の舟橋がファルマスに到着したが、ポトマック軍が抵抗もなしに川を渡るには遅すぎた。しかし、バーンサイドは、まだリー軍の半分しか来ておらず、塹壕に入ってもいないので、素早く行動すればジャクソンが到着する前にロングストリート軍を攻撃して打ち破ることができるという機会がまだあった。舟橋が揃ったのは月末であり、この時にはジャクソン軍が到着しロングストリート軍は強い防御陣を構えていた。
バーンサイドは元々、フレデリックスバーグの東、10マイル (16 km)下流で川を渡る考えだったが、ジュバル・アーリー准将の師団がそこに到着して遮った。このために直接フレデリックスバーグに渡ることを決断した。12月9日、ハレックに宛てて、「私は川の他の場所よりも我々の居る全面を直接渡れば、敵はより驚かされると考える。...敵の大部隊は今ポートロイヤルに結集していて、その残りがフレデリックスバーグに居ると確信し、これを倒せると期待する。」と書いた。バーンサイドは自軍の勢力的な優勢さに加え、実質的に攻撃されないということを知っている利点もあった。ラッパハノック川の対岸ではスタッフォード高地と呼ばれる尾根に220門の大砲が据えられ、リー軍が大きな反撃を受けないようにしていた。
リーは自軍に大きな信頼を寄せており、北軍が渡河を試みる2日前でも敵軍指揮官の作戦を確とは理解していなかった時でさえそうだった。左翼であるロングストリート配下の約2万名の兵士を市の直ぐ西、メアリーズハイツと呼ばれる尾根の頂上にある石壁の背後に置いた。市の南部、下流で渡河されることも恐れ、残りの部隊をジャクソン軍の南に配置した。その地域は丘が入り組んでおり、もう一つの優れた防御陣地になっていた。
12月11日朝、北軍の工兵技師達は全部で6個の舟橋を、2個は町中心の直ぐ北に、3番目は町の南端に、残り3つは南に近くラッパハノック川とディープランの合流点近くに組み立てた。工兵たちは特にウィリアム・バークスデイル准将のミシシッピ旅団に属する狙撃兵から懲罰的銃火を浴びた。最終的にバーンサイドの部下が説得してその夜にボートで上陸部隊を送り込み、小さな取っ掛かりを確保して狙撃兵を追い出した。南軍は北軍の援護砲撃があったために活発には上陸に抵抗しないことを選んだが、南北戦争でも最初の市街戦が起こり、建物は歩兵と対岸からの砲撃で取り払われた。北軍の大砲は5,000発以上の砲弾を町とその西の尾根に撃ち込んだ。橋が完成し、バーンサイド軍が市内を激しく蹂躙したので、リーはそれを古代ヴァンダル族の略奪行為になぞらえて怒った。この破壊行為は、その兵士の多くがバージニア生まれのリー軍兵士も怒らせた。12月11日と12日の流れの中で、バーンサイドの部隊は市の外郭に布陣しリー軍を攻撃する準備を整えた。
フッカーの突撃、午後3時半戦端は12月13日の午前8時半に市の南で開かれ、ウィリアム・B・フランクリン少将が左翼大師団から2個師団を以前は見えていなかったジャクソン防御陣右翼の隙間に送り込んだ。午前10時までに厚い霧が立ち込め始め、当初はゆっくりした動きが加速された。ジョージ・ミード少将の師団が主攻撃隊を形成し、アブナー・ダブルデーとジョン・ギボン各准将の師団が支援した。この攻撃はジョン・ペルハム少佐が指揮するバージニア騎馬砲兵隊によって立ち往生し、ペルハムの2門の大砲(12ポンド真鍮ナポレオンと腔線式ブレイクリー)と北軍の砲兵大隊とが約1時間砲撃戦を続けた。リー将軍はこの戦闘を観察して、24歳のペルハムについて、「こんなに若い者にこれほどの勇気を見るとは素晴らしい」とコメントした。最後はミード隊が牽引役となり、マクシー・グレッグ准将の旅団に駆け込みこれを蹴散らした。グレッグは撃たれて致命傷となり、2日後に死んだ。
ミード隊の右翼では、ギボン隊がウィリアム・ドーシー・ペンダーとエドワード・L・トーマス各准将の旅団に攻撃を掛けかなり進展があったが、ミード隊とギボン隊が分離された。午後1時半までに激しい南軍の反撃でこれら2隊は押し返された。霧が深い状態だったので、北軍の砲兵隊はうまく支援できなかった。北軍部隊は撃退されて南軍の歩兵隊に追跡され、川で動けなくなる心配が出てきた。ここでダニエル・シックルズ准将とデイビッド・B・バーニー准将の師団が北軍の戦線を補強しに入り、ジャクソン軍の反撃が行き詰まりになった。戦闘の焦点は北のメアリーズハイツに移った。
フレデリックスバーグの西への最初の攻撃は午前11時に始まり、ウィリアム・H・フレンチ准将の師団がプランク道路に沿って移動し険しい堤のる排水路と広く開けた400ヤード (360 m)の平地に直面したが、その向こう窪んだ道路と石壁の背後には南軍の歩兵と砲兵の部隊が待ち構えていた。少し前にロングストリートは、砲術練習生エドワード・ポーター・アレクサンダーから「我々が戦端を開いたらニワトリ(臆病者)1匹もあの平野では生きていけない」という言葉で安心させられていた。北軍の部隊の攻撃は排水路に架かる2本の小さな橋を縦列に進まざるを得ず、格好の目標にされた。さらに右翼側に攻撃を移そうという試みも湿地のために失敗した。南側と同様に、北軍の砲兵隊が霧に遮られ、南軍の大砲を効果的に黙らせることができなかった。